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モラリスト(仏: moraliste)とは、現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々のことで、特に16世紀から18世紀において活躍したモンテーニュ、ブレーズ・パスカル、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエール(フランス語)などフランス語圏の思想家を指す事が多い。こういった人間性探究の姿勢は、フランス文学に脈打つひとつの伝統ともなっているといえる。 ラテン語mos, moris(フランス語mœurs)は人間の慣習や風習、性格や生き方などを意味し、こうした人間の行動や振舞い全般を省察するのがモラリストである。「道徳家」(moralisateur)とは別の概念であり、日常的にはそのような意味で使われることがあるが、混同されるべきではない。道徳家は道徳を教える教訓を書くのであるが、モラリストはまず記述的な姿勢を取るのであり、道徳家とはむしろ対極的である。 日本ではフランス文学者河盛好蔵や前田陽一の著作紹介が有名である。また関根秀雄や内藤濯、大塚幸男、齋藤磯雄、田辺保が翻訳・紹介をしている。
モラリストには断続的な形式の記述を好むという特徴があり、その例としては、前もって決められた構成に従うことなく「飛び上がり跳ね回る」(『エセー』III-9)モンテーニュの随筆、ラ・ロシュフコーの箴言集、ラ・フォンテーヌの寓話集、ジャン・ド・ラ・ブリュイエールの性格論集(『人さまざま』)などが挙げられるが、これこそが、モラリストを規定する固有の特徴である。モラリストは構築された論証的、規範的な言説を拒否し、そこに付随する権威と学識に依拠するような身振り――まさに「道徳家」や、フィロゾーフや神学者や護教論者のような身振り――にも異議を唱える。(モンテーニュのように)無秩序さを前面に押し出すやり方にしても、(ラ・ロシュフコーやラ・ブリュイエールのように)描写の簡潔さに価値を置くやり方にしても、断続的な形式の選択は人間の振舞の無限の多様性と、一貫性も確実な意味ももはや存在しない現実世界の複雑さを物語っている。 19世紀の批評家とその継承者たちはモラリストの流れを、第1には戦乱や世俗・宗教における無秩序がもたらした唯物論や道徳的・宗教的無関心といったものへの反動であるとして、第2にはその前の世紀の粗野さに対する「洗練された社会」の発達であるとして、17世紀フランスの精神の最も際立った性質であると見做している[1]。しかし、こうしたアプローチはモラリストと道徳家の概念を危険な形で重ね合わせているが、モラリストは正確には決して道徳家ではなかった。そのうえ、モラリストの記述形式について考察するだけでも、その意味するところには両義性があると分かる。切り離された断片がまさに関連付けられるところの発話者がいないので、断片はほぼ引用のように機能し、ラ・ロシュフコーの「箴言」のようなテクストはアウグスティヌス的、リベルタン的な解釈の余地がある。「信仰」的な反動を仮定することはほとんど意味がなく、主題だけに限って言うならばラ・フォンテーヌやモンテーニュのようなモラリストは護教論的な関心よりもむしろ快楽主義に近くすらある。 大使たちがフランス王国の廷臣たちで最も重要な人物たちの特徴を描写することに専念したというヴェネツィアの Relazioni によって刺激されたものであるという主張さえもある[2]。これはいわゆる「鍵」仮説、特にラ・ブリュイエールの『カラクテール(Caractères)』に当て嵌まる仮説で、性格描写(肖像)のそれぞれに同時代の実在人物が隠されているというものである。ラ・ブリュイエール自身が、テクストを歴史的な楽しい読み物といったものに還元してしまう作品のそのような読み方を拒絶している。 こうしたモラリストの仮定的な「起源」を当てにせず正確であろうとするなら、モラリストの範疇を、厳密に、フロンドの乱の英雄と空想の時代の後の17世紀後半に歴史的に限定することが重要である。ルイ14世の治世がもたらした英雄とその神話の「破壊」(ポール・ベニシュー(フランス語))をモラリストたちは報告し、またそれに加わったのである。このような因果関係によって、ある種の悲観主義や、価値や意味を疑問に付すことを特徴としたモラリスト的な記述の出現を説明可能にする要素が見出されるのである。 モラリストの文体の特性を説明する一番良い方法はそれがモラリストでないものとどう違うか比較することである。表面的にはモラリスト文学に非常に近い、アマチュアやプロの、値打ちもさまざまな作家たちは数多く挙げることができる。ニコラ・コエフトー(フランス語)、マラン・キュロー・ド・ラ・シャンブル(フランス語)、ジャン=フランソワ・スノー(フランス語)、マドレーヌ・ド・スキュデリ(フランス語)、さらには古くはペトラルカやスペインのバルタサル・グラシアンなどの外国のモラリストの翻訳も挙げられる。厳密に言えば、こうした作家たちは、主題が似ているという点を除いてはモラリストではない。その論述や思考の様式は根本的に異っており、全く違った読み方を引き起こす。実際、これらの著述家たちは、持続的で論証的な論法を選ぶことで、自身が確信している「真実」を断定的・決定的な形で述べている。一方で、マルク・エスコラが示したように[3]、モラリストの定義的な特徴である断片的な形式は読者に参加させ、断片間に連続性を作り出すさまざまなつながりを再構築するように強い、読者自身に意味の道筋を決めさせる。これが、モラリストにとって、もはや流動的で不安定で変わりやすいものとなった真実や、身振りや振舞いの新しい両義性を正確に表すことのできる方法となっている。こうしたテクストの構造はモンテーニュの表現を借りるなら「受け皿がもはや安定していない」(『エセー』III-2)現実と等価であり、読者にこの不安定さを感じさせる。 こうした作品の総体がモンテーニュとまさに結び付けられるのはモラリストの姿勢というものがモンテーニュにあって初めて生み出されたからでもあり、また『エセー』が17世紀の枕頭の書となり、特にここで検討している作家たちに読まれていたからでもある。 パスカルの『パンセ』がモラリスト文学に結び付けられるのは、歴史的な偶然による。『パンセ』はキリスト教擁護の草稿が断片的な形式で残ったものである。パスカルの死により未完成で終わったというためだけにモラリストのジャンルに結び付いているのであり、当初の草稿は、護教論であり、よって秩序立った論証的な形式を備えていたが、モラリスト以外の何者でもない姿勢から発していたようだ。 18世紀には、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエール、ラ・フォンテーヌによって作り出され、というよりはむしろ文学的な威厳を与えられた諸ジャンルは一連の模倣者や継承者たちによって大々的に引き継がれた。質の高かった作家を少数だけ挙げるなら、ヴォーヴナルグ(フランス語)、シャンフォール(フランス語)、アントワーヌ・リヴァロル(フランス語)などである。 定義を2つの方向に拡張することで、概念の妥当性は損われるもののモラリストの範囲を広げることができる。モラリストの作風 [編集]
歴史におけるモラリスト [編集]
モラリスト概念の拡張 [編集]
代表人物 [編集]
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ブレーズ・パスカル。
脚注 [編集]
随筆(ずいひつ、エッセイ)は文学における一形式。英語essay、フランス語essaiの訳語。筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想や思索、思想を散文によってまとめたもの。一般にはミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』(1580年)がこのジャンルの先駆者であり、欧米においては綿密な思索を基にした論文的なスタイルを念頭に置いてこの語を用いることが多いが、日本においては後述する江戸時代後期の日記的随筆のイメージもあって、もうすこし気楽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることが多い。 日本における随筆の起源は10世紀末に清少納言によって書かれた『枕草子』であるとされる。枕草子における日常的風景に対する鋭い観察眼は「をかし」という言葉で象徴される。その後も、鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』など優れた随筆作品が登場した。 江戸時代に入ると、随筆は武士や町人など様々な階級の人々によって書かれた。この時代の代表的な随筆として、『玉勝間』(本居宣長)、『花月双紙』(松平定信)、『折たく柴の記』(新井白石)、『塩尻』(天野信景)などがある。 日本語以外の文化圏で日本語の「随筆」に相当するEssayの萌芽は古代ローマのキケロ、セネカ、プルタルコスなどの作品に見ることができるが、本格的にこのような文学形態を創始したのはフランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュであるとされる。フランス語で「試み」を意味する著書『エセー』(essai)において、身辺における様々な事物の考察を通し、自己の内面の探求を試みた。著名な随筆文 [編集]
エコミュージアム(Ecomuseum)とは、エコロジー(生態学)とミュージアム(博物館)とをつなぎ合わせた造語で、ある一定の地域において、住民の参加によって、その地域で受け継がれてきた自然や文化、生活様式を含めた環境を、総体として永続的な(持続可能な)方法で研究・保存・展示・活用していくという考え方、またその実践である。 エコミュージアムは、展示資料の現地保存、住民が参加しての運営などにより、地域を見直し、その発展を目指すことに特徴がある。エコミュージアムは博物館として明確な形態があるわけではなく、さまざまなタイプのものが存在しうる。 発祥はフランスであることから、元々はフランス語の「エコミュゼ」であり、「エコミュージアム」というのはその英訳である。
エコミュージアムは、1960年代後半に国際博物館会議(ICOM)の初代ディレクターであったリヴィエール(G.H.Rivière)がその概念を提唱し推進に尽力したものである。「エコミュージアム」という用語そのものはユグ・ド・ヴァリーン(Hugues de Varine)により考案された「エコミュゼ」(écomusée)の英訳であり、1971年の第9回国際博物館会議の席上で公に発表された。その後、世界各地に紹介され、地域に応じた展開をとげている。 リヴィエールの提唱した概念によれば、地域の人びとが自らの地域社会を探究し未来を創造するための家たる博物館であり、「地域社会の人々の生活と、その自然環境・社会環境の発達過程を史的に探究し、自然遺産および文化遺産を現地において保存し、育成し、展示することをつうじて、当該地域社会の発展に寄与することを目的とする新しい理念を持った博物館である」。(日本にエコミュージアムを紹介した新井重三の後掲書に紹介されている) エコミュージアムの構成要素は、地域の紹介所の機能を果たす拠点施設「コア」、現地で保存された展示対象たる「サテライト」、コアとサテライトあるいはサテライト相互をつなぎ、地域の魅力再発見へと導く「ディスカバリー・トレイル」(発見の小径)などからなる。これらで「つなぎ」、構成される地域全体が資源となる。(このモデルは、エコミュージアムの基本的な定義とは関係ないが、日本では多くの試行例が採用しているモデルとなっている) これによると、つまり、これまでの神社仏閣・名勝・景勝地などの既存の有名観光資源を広範囲に移動しつつ駆け足で「巡る」タイプの「観光」ではなく、広い意味での新しい「旅」のフィールドとなる。 従来型の博物館(ミュージアム)は、次の特徴を持っている。 であり、要するに(エコミュージアムとの対比をあえて強調していえば)高度な文化を扱う学芸員という専門家が主で利用者が従という関係で、文化を閉じ込めるものであるといえる。 これに対して、エコミュージアムには、専門家のもの、特殊な文化を扱うという考え方はない。 つまり、エコミュージアムは、その地の現在の生活や文化がどんな経緯でつくられてきたかということを住人自身が知り、また、他の土地の人たちにそれを見せることによって理解し、再確認する。そして、正しく受け継いでいくことに意義がある。 こうした一連の営みによって地域の活性化を図り、産業の発展をめざすことがエコミュージアムの目的であり、実践であるといえる。 ただ、たとえ一地域の産業活動であっても、その大半は商取引を通じてグローバル経済に組み込まれてしまい、事業として成り立たせていくことが第一の課題であり、他地域からの資金・利潤の獲得により産業の発展にまでつなげていくことは実際にはなかなか難しい。 エコミュージアムの取り組みが盛んなのは、中山間地域・田園地域である。 これらの地域にあるのは、民家、棚田、果樹園、背後の雑木林・竹林、小川、せせらぎ、水車・水車小屋、鎮守の森、そして山中に点在していた炭焼き小屋などである。いずれも、生活の手段たるものが大半であり、本来は相互の関連や周辺環境との関わりの中で存在してきたものであるが、これまでの博物館のあり方では、文脈を保ったままの収集は困難であった。こうした日常の生活の要素やその利用といった「場面」「シーン」を丸ごと見せるのが、エコミュージアムの考え方である。 丸ごと見せることで、地域住民がエコミュージアム活動に関わる契機となり、来訪者にとっても地域住民にとっても、生きた形での生活文化の学習が可能となる。 エコミュージアムは、日本においては、1995年頃新井重三等によって紹介された。なお、新井重三は翻訳する場合は「生活・環境博物館」とすべきとしている。 その後、「エコ」「ミュージアム」という語感のよさもあり、地域づくり計画・構想等において盛んに紹介されたが、コンセプトが未消化のまま言葉が先行したきらいは否めない。 しかしながら、直接エコミュージアムの理念にもとづき計画・設置されたものとは言いがたいが、その思想は、地域づくりに適用されている。例えば、山形県朝日町では「まちは大きな博物館」「まち全体が博物館、町民すべてが学芸員」をキーワードとし、町行政の地域づくり計画の中に位置づけたことで知られる。 また、地域の生活や文化を担っている人の活動を見せることによって、保存・継承しようという施設は各地にみられるようになってきた。たとえば、愛知県豊田市足助町の「三州足助屋敷」や群馬県みなかみ町新治地域の「たくみの里」などはその一例といえよう。「手仕事」が静かに注目されているのも一つの現われと言えよう。 このように、エコミュージアムという言葉を用いるかどうかは別にして、「地域全体が博物館」というまちづくりのコンセプトは全国各地で見られる。 エコミュージアムが紹介された以前から保存・活用の活動が全国で進んでいる町並みなども、生活しつつ保存するという考え方に立てば、その一つともいえる。その意味では、エコミュージアムという用語は使わないにしても、考え方としては日本においても浸透しつつあるといえよう。 地域全体が博物館という考えから発展したフィールド・ミュージアム等の考え方にも、エコ・生態系重視の考え方は相当に弱まるが、特定の地点に集中させるのではなく、「巡ってゆく」「現地であることを大切にする」等の思想は部分的ではあるが、受け継がれている。概要 [編集]
原義 [編集]
構成要素(日本における支配的モデル) [編集]
従来の博物館との違い [編集]
エコミュージアムの意義 [編集]
日本における取り組み [編集]
考現学(こうげんがく、the study of modern social phenomena)とは、現代の社会現象を場所・時間を定めて組織的に調査・研究し、世相や風俗を分析・解説しようとする学問。考古学をもじってつくられた造語、モデルノロジー(modernology)。
非表示 概要
考現学は、1927年(昭和2年)、今和次郎が提唱した学問である。今はそれまで柳田國男に師事し、民俗学研究の一環として民家研究などで業績を挙げていたが、本人の語るところによると考現学研究のため柳田に「破門」されたという。その研究のはじまりは、1923年(大正12年)の関東大震災後の東京の町を歩き、バラックをスケッチしたことからであった。
これを機に新しく都市風俗の観察の学問をはじめ、1925年(大正14年)には「銀座街風俗」の調査をおこなって雑誌『婦人公論』に発表した。「考現学」の提唱は、1927年の新宿紀伊国屋で「しらべもの(考現学)展覧会」を催した際のことであった。1930年(昭和5年)には『モデルノロヂオ』が出版されている。今の提唱した「考現学」の発想から、生活学、風俗学、そして路上観察学などが生まれていった。
↑ セクションの先頭に戻る 非表示 「考現学」関連図書
泉麻人『「お約束」考現学』ソフトバンククリエイティブ<SB文庫>、2006年 鷲田清一『てつがくを着て、まちを歩こう ファッション考現学』筑摩書房<ちくま学芸文庫>、2006年 辰巳渚『なぜ安アパートに住んでポルシェに乗るのか ミステリアス・マーケット考現学』光文社<Kobunsha paperbacks>、2004年 斉藤政喜・内沢旬子『東方見便録 「もの出す人々」から見たアジア考現学』文藝春秋<文春文庫>、2001年
1953年問題(せんきゅうひゃくごじゅうさんねんもんだい)とは、1953年(昭和28年)に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物について、その日本の著作権法に基づく著作権の保護期間が、2003年12月31日をもって終了しているか、あるいは2023年12月31日まで存続するかという、対立する二つの見解が存在した問題である。
1953年は『ローマの休日』や『シェーン』などの名作とされる映画が公開された年でもあること、これらの映画の著作権が2023年まで存続するという日本政府(文化庁)の見解が司法判断によって覆されたこともあり、この問題がさらに注目されることとなった。2007年12月18日に最高裁判所は、1953年公表の団体名義の独創性を有する映画については2003年12月31日をもって終了したと判断した。これにより、著作権を主張する原告側の見解が退けられ、この問題に対する決着がついた。
非表示 問題点の所在
2004年1月1日に施行された著作権法の一部を改正する法律(平成15年法律第85号、以下「改正法」という)により改正される前の著作権法54条1項(以下「旧法」という)は、映画の著作物の著作権は、公表後50年を経過するまで存続するものと定めていた。しかし、改正法により改正された著作権法54条1項(以下「新法」という)では、映画の著作物の著作権は公表後70年を経過するまで存続する。そして、改正法附則2条は、経過規定として「この法律の施行の際現に改正前の著作権法による著作権が消滅している映画の著作物については、なお従前の例による」として、改正法の施行日である2004年1月1日の時点で既に著作権が消滅している映画の著作物については、新法による保護期間の適用がないものと定めている。なお、著作権法では著作権の保護期間の計算方法について、「期間の終期を計算するときは、……著作物が公表され若しくは創作された日のそれぞれ属する年の翌年から起算する」として、暦年主義を採用している(著作権法57条)。
このような法改正の経過を前提にした場合、1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物の著作権は、日本国内において、いつ消滅することになるのか。
暦年主義により、保護期間は1954年1月1日から起算するため(著作権法57条)、1953年に公表された映画の著作物の著作権は、旧法によれば2003年12月31日をもって消滅する。では、このような著作物は、改正法附則2条にいう「この法律の施行の際現に改正前の著作権法による著作権が消滅している映画の著作物」に該当するのか否か。該当するとすれば、1953年に公表された映画の著作物の著作権は2003年12月31日(公表後50年)をもって消滅したことになる。逆に、該当しないとすれば、著作権は2023年12月31日(公表後70年)まで存続することになる。この見解の対立が1953年問題と俗称されるものである。
↑ セクションの先頭に戻る 非表示 この問題の射程範囲
1953年に公表された映画の著作権が日本国内において2003年12月31日をもって消滅するか否かという問題の射程範囲は、団体名義の独創性を有する映画の著作物に限られる。
1953年当時に施行されていた著作権法 (明治32年法律第39号)は、独創性を有する映画か否か、著作の名義が個人か団体か等によって、映画の著作物の著作権の存続期間を区別していた。そして、1971年1月1日に施行された現行の著作権法(昭和45年法律第48号)によれば、同法の施行前に公表された著作物の著作権の存続期間は、旧著作権法による存続期間の方が長い場合は旧著作権法による存続期間による(附則7条)。
このため、例えば、個人名義の独創性ある映画の著作物が実名で1953年に公表され、著作者が公表後である1998年に死亡した場合を例にすると、現行著作権法の本則中の規定では、1953年の翌年から起算して50年又は70年(2003年12月31日まで又は2023年12月21日まで)著作権が存続するのに対し、旧著作権法では、1998年の翌年から起算して38年(2036年12月31日まで)存続する(旧著作権法22条の3、52条、3条1項)。そして、著作権法附則7条が適用される結果、存続期間は後者によることになる。そのため、2003年12月31日の経過により著作権が消滅するか否かという問題自体が生じない。
↑ セクションの先頭に戻る 非表示 論点に対する見解
1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物の著作権が2003年12月31日(公表後50年)をもって消滅したとする見解を「消滅説」、2023年12月31日(公表後70年)まで存続するとする見解を「存続説」とよぶこととして、それぞれの根拠を説明する。
消滅説(判例)
1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物の著作権が、改正法施行時には既に消滅していたという見解は、2003年12月31日と2004年1月1日は「別の日」であるということを根拠とする。「別の日」であるとすると、2003年12月31日に著作権は消滅し、その翌日の改正法施行日である2004年1月1日には、既に著作権は消滅している。改正法附則2条に基づき、1953年公表の映画は日本国内においては著作権が消滅していることになるので、以後は著作権による保護を受けないことになる。
期間計算に関する法令上の通常の扱いでは、2003年12月31日午後12時(24時)と2004年1月1日午前0時は、別時点であり別々の日と認識することが多く、一般的にも、別々の日と考えるのが自然な感覚である。
また、著作権法(新旧とも)54条1項および57条は、いずれも「年」によって保護期間を定めている。これは、「年によって期間を定めた」(民法140条)ものであって、「時間によって期間を定めた」(同法139条)ものではない。そして、「年」によって期間を定めた場合には、「その末日の終了をもって満了する」(同法141条)と定める。したがって、保護期間の満了を把握する基本的な単位は、あくまでも「日」であって「時間」ではない。これは、著作権法の文言が、「別の日」説を採るべきことを示唆するものである。
存続説
1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物の著作権が、改正法施行時に現に存続していたという見解は、2003年12月31日午後12時と2004年1月1日午前0時は「同時点」であるということを根拠とする。「同時点」であるとすると、改正法施行時にも著作権は存続していることになる。したがって、改正法附則2条に基づき、著作権の保護期間は2023年12月31日まで延長されることになる。
文化庁著作権課の見解もこれに沿い、両時は「接着している」として、1953年に公表された映画には新法が適用されて、著作権の保護期間を公表後70年としていた。
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2006年、映画『ローマの休日』および『シェーン』(いずれも1953年に公開)を収録した格安DVDソフトを販売していた業者に対し、これらの映画の著作権者であると主張する米パラマウント・ピクチャーズ社がDVD販売の差止を求める民事紛争を提起したことから、司法判断によってこの問題に決着がつくこととなった。しかし、パラマウント側はあえて最高裁に対して許可抗告を行わなかった。
「ローマの休日」事件
『ローマの休日』 2006年5月25日、アメリカ合衆国法人パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション(以下、パラマウント)が、『ローマの休日』(後日、『第十七捕虜収容所』を追加。)の格安DVDソフトを販売する株式会社ファーストトレーディングに対し、同ソフトの製造・販売の差止を求めて、東京地方裁判所に仮処分を申し立てた。パラマウントは、警察に海賊版の取締りを求めて相談したが、警察から「海賊版かどうかは、司法判断がないと分からない」と回答されたため、仮処分を申し立てたとされる。なお、この仮処分の申立を受けて、ファーストトレーディングは、同作の販売を中止した。
パラマウントの主張は、存続説に沿って「同時点」説に立つ。これに対して、ファーストトレーディングの主張は、消滅説に沿って「別の日」説に立つ。
同年7月11日、東京地方裁判所民事47部は、文理解釈によって「別の日」説を採り、パラマウントの申立を却下する決定を出した。文化庁の解釈が否定されたことになる。
パラマウントは、知的財産高等裁判所に決定の取消を求めて即時抗告を行ったが、10月に同様の論点を巡って争われていた「シェーン」事件で敗訴(後述)したことを受けて「戦術の練り直し」を理由に『ローマの休日』については抗告を取り下げた。ファーストトレーディング側は販売の再開を慎重に検討するとしていたが、12月までに同社とは別に株式会社コスミック出版が同作の格安DVDソフトを発売。ファーストトレーディングも翌2007年より販売を再開した。
「シェーン」事件
『シェーン』 『ローマの休日』と同様に1953年に公開された映画『シェーン』について、米パラマウント社および同作の日本国内での恒久的な独占的利用権(頒布権を含む)の譲渡を受けた株式会社東北新社が同作の格安DVDソフトを販売する株式会社ブレーントラストおよび有限会社オフィスワイケーの2社を相手取って製造・販売の差止と損害賠償を求めて東京地方裁判所で争っていた裁判では、2006年10月6日に東京地裁民事29部がやはり民事47部の決定と同様の理由で原告パラマウント・東北新社の請求を棄却した。
判決では「2003年12月31日午後12時(24時)」と「2004年1月1日」は「別の日」であることを再度確認するとともに、立法経緯に関して、文化審議会著作権分科会における議論で映画業界代表の委員から「日本映画の危機」がしきりに喧伝されていたが、他の委員からは反論が相次いだことから、国会への法案提出に際しては
“ 他の先進諸国における映画の著作物の著作権の保護期間は一般に日本よりも長いという状況を踏まえて,映画の著作物の著作権の保護期間を延長して映画の著作物の保護を強化する ” ことが法案の目的であると説明され、原告が主張する
“
日本映画の黄金期に公表された各作品の著作権の消滅を防ぐ
昭和28年に公表された映画の著作権の消滅を防ぐ
”
という理由は挙げられていなかったことを指摘したうえで、1953年公開の映画は本法の対象に含まれないとして『シェーン』は2003年12月31日をもって保護期間を満了したと判断した。
パラマウント・東北新社はこの判決を不服として知的財産高等裁判所に控訴したが、2007年3月29日に知財高裁は一審・東京地裁判決を支持し控訴を棄却した。同年12月18日の最高裁判所における上告審判決も一審・二審判決を支持するものであり、これによりパラマウント側の敗訴が確定した。
↑ セクションの先頭に戻る 非表示 立法の趣旨と論点との関係
改正法附則2条は経過規定であり、その立法趣旨は、すでに著作権の保護期間が満了している著作物の著作権を復活させないことにある。2003年12月31日午後12時と2004年1月1日午前0時とを「同時点」とするのも、本来は施行時点の直前までに著作権が消滅していない著作物に、新たに保護期間が付与されることを説明するためであり、1970年の現行著作権法制定時にも同種の説明により保護期間の延長がなされていた。すなわち、立法趣旨に基づけば、1953年に公表された映画の著作物は、改正規定が施行された2004年1月1日午前0時の直前まで保護されていたことにより引き続き保護されるのであり、「別の日」か「同時点」であるかは無関係のはずであった。にも関わらず「別の日」か「同時点」かが争点となったのは、文化庁が改正法附則2条に「同時点」による文理解釈を示したことにより、解釈の余地が生まれたためであった。(参考文献:作花文雄 『著作権法 制度と政策』442―450頁)
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エロティカ(erotica、エロチカ、エロス作品、官能作品、ギリシャ語で性愛を意味する「エロス」より)は、エロティシズム(色情)を刺激したり性的興奮を起こしたりする官能的な描写を扱う文学(性愛文学・官能小説・好色文学)・写真・映画・絵画(春画など)・彫刻などの芸術作品を指す。 元々エロティカは、人間の肉体や性を、芸術的な意図やハイアートを制作するという抱負とともに描く作品を指す近代の用語で、商業的・金銭的な意図から制作されるポルノグラフィとは別とされる。
一般的には、「エロティカ」は、性的興奮を起こす素材を扱う作品のうち、芸術的・科学的な価値を意図したり残したりしているものを指し、「ポルノグラフィ」は、性を好色に描写し芸術的価値が少ないか全くないものを指す。 エロティカとポルノグラフィ(あるいは性的娯楽作品)との違いを区別することは、不可能とはいわないまでも非常に難しい。エロティック・アートというものの存在を支持する立場からは、エロティカは性的な面白さより芸術的な面白さを追求するものであり、それゆえポルノとは違うとされる。しかし、エロティカも実際は性的興奮を起こすことを目的としているとして、このような主張を退ける意見もある。金儲けを目的としたポルノが、裸体芸術や性科学などの名目で公開されてきた歴史もある(例えば性科学映画など)。 エロティカとポルノとの間を区別することが可能かどうかという問題は、多くの複雑な疑問を生む。こうした疑問の中には、作品から起こされる美学的な感情と官能的な感情は互いに独立したもので切り離せるものかどうか、あるいは作品内の芸術性や商業性の度合いを客観的に計ることができるかどうか、どの時点で作品はポルノと呼ばれるのかどうか、などが含まれる。 こうしたことから、性を描いた小説や写真・映画などが、税関で没収されたり上映・出版・展覧に反対運動が起きたり禁止の措置が下されたりするような時、その作品を享受されるべき芸術作品とするか享受されるべきでないわいせつ物とみるかで様々な裁判や事件が発生してきた。 裸婦像は、ルネサンス以後のヨーロッパではギリシア神話などに仮託して描かれてきたが、しばしば弾圧や破棄の対象となってきた。17世紀のスペインでは裸婦像は禁じられ、異端審問所による没収や画家の処罰が行われた。裸婦を描くことが比較的自由であったフランスでも、ヌードを描いたレオナルド・ダ・ヴィンチの『レダと白鳥』が破棄されるなどの事件がおきている。しかし貴族階級では、芸術と道徳の問題を切り離して考える者もおり、王侯貴族は個人的に多数の裸婦像を所持したり描かせたりしてひそかに愉しんだ[1]。 19世紀のヨーロッパでは、ヌード絵画や彫刻が宮廷から市民社会へと進出したが、その過程で様々な抵抗を受けた。イギリスでは、ギリシャ・ローマへの関心の高まりや、健康悪化や理性至上主義への反省、国民の身体を剛健なものにするという必要からヌードへの関心が高まったが、一方では宗教や道徳あるいは社会改良の立場からヌードやわいせつ物が攻撃された。またしばしば美術館や写真店がヌード作品の展示により非難を浴びた[2]。特に1857年の猥褻出版物取締法制定後には、どこからが芸術でどこからがわいせつかという区別が論争の種になった。1885年にはロイヤルアカデミーなどへのヌード絵画の出品が目に余るとする匿名の婦人が「タイムズ」に投書を寄せ、ヌード作品により観客は気分を害され、しかも若い女性がヌードモデルとなることで観客の好色の目にさらされ堕落する危険があるとして展覧会のボイコットを訴えた[2]。これに対し、多くの新聞を舞台に芸術家と運動家との間でヌード作品の存在意義をめぐる論戦が起きた。ヴィクトリア朝時代には画家らは神話や古代の舞台を借りて官能的なヌードを描いたものの、20世紀の前半にはこうした作品は慣習的なアカデミズムや上品ぶった中の淫らさへの関心などがやり玉にあげられ、長い間冷遇された[2]。 日本では明治以降、ヨーロッパからヌードデッサンが芸術教育に採り入れられたが社会の抵抗は大きく、初期の裸体画(例えば黒田清輝の『朝妝』)は未成年閲覧禁止措置が取られた。また第二次世界大戦後には『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳出版をめぐるチャタレー事件、『四畳半襖の下張』の雑誌掲載をめぐる四畳半襖の下張事件などが起きている。 その他、明らかに商業的目的で製作されたピンク映画など映画や写真などの中に制作者の作家性を見出すか、あるいはあくまで性を商業化するものとして糾弾されるべきものとみるかというような議論もある。 社会に流通しているポルノの大半は男性異性愛者の女性観を反映したものであり、女性や性的少数者にとっては、目に触れると不愉快な場合がある。ポルノにみられる女性蔑視的傾向や、ポルノに寛容な風潮が、フェミニズムによって批判されてきた。アンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マキノンといったポルノに反対するフェミニストは、ポルノに独自の定義を与えたうえで、「ポルノは理論で、レイプが実践」というテーゼを掲げ、ポルノが男性の偏向した女性観を育てているとして、ポルノそのものの排除を主張した。一方で、性差別的なものをポルノ、性平等的なものをエロティカと呼び、前者のみを否定する立場もある。またフェミニストの中にも既存の性秩序への破壊力をポルノに認め、ポルノ一般に寛容な立場もある。 エロティカの中には様々なサブジャンルがある。たとえばエロチックなフィクションのなかでも、サイエンス・フィクション、ファンタジー、ホラー、ロマンスなど特定のサブジャンルに属するものがある。他の作品の中のキャラクターを使ってファンが二次制作するファン・フィクションのうち、男性キャラクター同士を結び付けるものはスラッシュ・フィクション(あるいはやおい作品)と呼ばれる。 さらに、エロティカの中には特別な性的嗜好・フェティシズムに焦点をあてたもの(例えばボンデージ・ディシプリン・サディズム・マゾヒズムのような嗜虐的性向の総称であるBDSM、制服フェティシズム、異性装、思春期以下の少年少女や老人に対する性愛など)もある。エロティカとポルノグラフィとの間、芸術とポルノとの間 [編集]
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Fernande (Jean Agélou,1878年-1921年)![]()
裸のマハ(1797年-1800年頃 プラド美術館所蔵)、 フランシスコ・デ・ゴヤ (1878年 - 1921年)![]()
『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』(Histoire de Juliette, ou les Prospérités du vice 、マルキ・ド・サド著)より
エロティカとポルノとフェミニズム [編集]
ジャンル [編集]
チャタレー事件(チャタレーじけん)とは、イギリスの作家D・H・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家伊藤整と、出版社社長に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件。わいせつと表現の自由の関係が問われた。 目次 [非表示] 1 概要 1.1 弁護人について 1.2 論点 2 最高裁判決 2.1 わいせつの三要素 2.2 わいせつの判断 2.3 公共の福祉 3 事件の意義 3.1 公共の福祉論について 4 補記 5 判例評釈 6 関連事件 7 関連項目 8 外部リンク 概要 [編集] 『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長はそれを知りつつ出版した。伊藤と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長を有罪、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では両被告人を有罪としたため、両名が上告。 弁護人について [編集] 被告人側の弁護人には、正木ひろし、後に最高裁判所裁判官となる環昌一らが付き、さらに特別弁護人として中島健蔵、福田恆存らが出廷して論点についての無罪を主張した。 論点 [編集] わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。 最高裁判決 [編集] 最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。 わいせつの三要素 [編集] 徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、 且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し 善良な性的道義観念に反するものをいう (なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである) わいせつの判断 [編集] わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」 公共の福祉 [編集] 「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。」 事件の意義 [編集] わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。 公共の福祉論について [編集] 公共の福祉論の援用が安易であることには批判が強い。公共の福祉は人権の合理的な制約理由として働くが、わいせつの規制を公共の福祉と捉える見方には懐疑論も強い。 補記 [編集] 出版された本のタイトルは『チャタレイ夫人の恋人』だが、判決文では「チャタレー夫人の恋人」となっている。憲法学界における表記も「チャタレー事件」「チャタレイ事件」の2通りがある。 この裁判の結果、『チャタレイ夫人の恋人』は問題とされた部分に伏字を用いて1964年に出版された。具体的には該当部分を削除し、そこにアスタリスクマークを用いて削除の意を表した。 伊藤整は、当事者として体験ノンフィクション『裁判』を書いた(初版筑摩書房、現在は晶文社で上下巻、解説伊藤礼)。伊藤礼は整の次男で、新潮文庫(ISBN 4-10-207012-5)で、1996年に削除された部分を補った完訳本を出版し、現在は訳文そのままに読む事が可能になった。 1960年にはイギリスでも同旨の訴訟が起こっている。結果は陪審員の満場一致で無罪。2006年には訴訟の様子がノンフィクションとしてドラマ化された。 2007年に「日本D・H・ロレンス協会」の会長を務めた倉持三郎が、彩流社で『「チャタレー夫人の恋人」裁判 日米英の比較』を刊行した。なお著者は集大成の形で、2005年に同社より『D・H・ローレンスの作品と時代背景』を刊行している。
エピゴーネン(ドイツ語: Epigonen)は、文学や芸術の分野などで、優れているとされる先人のスタイル等をそのまま流用・模倣して、オリジナル性に欠けた作品を制作する者を指す。「模倣者」、「亜流」、「身代わり」。
現代において「パクリ」と言われるものも、用法的な意味合いとしてはこれに極めて近い。
非表示 言葉の由来
「エピゴーネン」という言葉はドイツ語から日本語に入った概念であるが、大元を辿れば古典ギリシア語の「エピゴノイ( epigonoi, επιγονοι )」からの派生である。エピゴノイは「エピゴノス」の複数形で、エピゴノス( epigonos )は、「後に生まれた者」を意味する。
ギリシア神話においては、アドラストスを指揮者とするテーバイ攻めの七将が敗死した後、十年後に、七将の子供たちが復讐を誓い、再びテーバイを攻めた故事において、この七将の子供たちを、「エピゴノイ」と呼んだ。これに因んで「先人の行為の模倣者」というような意味のエピゴーネンが生まれた。
↑ セクションの先頭に戻る 非表示 エピゴーネンの例
エピゴーネンの例は非常に多数存在している。オリジナルの芸術等に高い価値があり、エピゴーネンは芸術性において劣っていると見なされるのが通常である(模倣した者の方が同等かそれ以上に優れていた場合は、エピゴーネンとは呼ばず、「影響を受けた者」「発展形」ということになる)。
歴史的に顕著なものとしては、古典ギリシアにおける様々な芸術と、その文化継承者であるローマの関係が、大なり小なり創造者とエピゴーネンの関係になる。特にギリシアの彫像技術は、高度な芸術品で、ペイディアスの作品などは古代において広く名声を博していた。
古代ローマは軍事的には卓越していたが、芸術的感性では凡庸なところがあり、ローマ時代に、古代ギリシアの彫刻像を模倣して造られた多数の彫像は、芸術的にオリジナルと比較しようもない水準のものであった。ローマの彫刻家たちは、こういう意味で、ギリシアの彫刻家のエピゴーネンということになる。
それでは、具体的にどのような鑑賞者開発プロジェクトが必要とされるのでしょうか。文化鑑賞を妨げる要因との関係から、次のように考えていくことができます。 第1番目は、地理的なアクセスを改善するものです。文化活動は、通常は都市部に集中しがちです。農村・山間部に住む人々にとっては、文化イベントが行われている場所までの距離は大きな障害です。そこで具体的には、地域における文化の拠点づくりや都市部からの地方出張公演を促す特別の補助金を交付する、ということが考えられましょう。 第2番目には、経済的アクセスの改善です。従来、ヨーロッパの文化政策においては、政府の補助金により、チケットの値段を低く抑えるということが基本的な考え方であり、それは確かに意義をもってきました。しかし、自分が楽しめるかどうかわからない未知数の文化に対して、あるいは興味を持っていない文化に対しては、どれほど安くしようとも人々は支払いの価値を見出せません。文化プロダクト、それもライブの公演や映画上映などは、お金を払って一度体験しない限りは、そのプロダクトの全容を知ることは不可能です。一般の商品(例えば自動車、服)なら、あらかじめ試してみて、自分に合うかどうかがわかってから買えるのに対して、文化は商品に対するリスクを消費者が負わなければなりません。そこで、鑑賞者開発では、思い切って無料で招待する、あるいは街角で、人々が通りがかりに見聞きできるような公演の”見本市”を行っています。こうして、少なくとも一度目はリスクをとらずに体験できる機会づくり、あるいはその人の内に潜んでいた文化への関心に刺激を与えるのです。 第3番目には、物理的なアクセスをよくすることが考えられます。車椅子を利用する人のためにスロープをつけたり、広いトイレをつくったり、というようなことは、わが国の文化施設にも近年増加しています。イギリスではさらに、公演における手話通訳のサービス、美術館における視覚障害者のための鑑賞教室などのサービスもあります。しかし、実際、このようなものを用意して「障害者の方もどうぞ」といって待っているだけでは、彼らは文化施設に来てくれるわけではありません。アクセスを阻む障害を取り除くだけでは不十分で、彼らに積極的に働きかけなければ参加は促せないのです。イギリスでは、身体障害者が文化を楽しむための手助けをするNPOがあり、ボランティアの人々により、身体障害者を文化施設まで送迎するサービスを提供しています。このようなサービスがなければ、どれほどスロープやエレベーターを設置しようとも、結局意味がありません。このNPOの場合、サービス利用者とボランティアの興味がなるべく一致するようアレンジし、両者が一緒に楽しめるように工夫されています。さらには、身体障害者にとって必要な種類の、文化施設に関する情報の提供も必要です。公演や展覧会などのイベント情報、そして文化施設の身体障害者用設備に関する情報を、目が不自由な人々も内容を把握できるような形で提供していかなければ、前述のような”エスコート・サービス”も効果を発揮できません。 第4番目には、上述の点に関連しますが、情報面でのアクセスを改善していくことです。ある程度文化に興味を持っている人々に対してなら、街角のポスターやリーフレットは効果的ですが、こういったものは興味を持っていない人の目には入ってきません。ところが、身近な人間から直接「この公演がおもしろかった」などと聞くと、そうかな、と思うものです。そのような口コミネットワークを積極的に整備するため、エディンバラにある鑑賞者開発サポートセンターである「オーディエンス・ビジネス」では、タクシー運転手、ホテルの従業員、美容師などに対する文化参加の機会を提供しています。実際、これらの人々は、文化イベントに出かける度に、自分なりの判断を形成し、お客さんたちに情報を伝えているという効果を生んでいます。 このように情報面で興味深いものが得られたりしても、実は文化、特に芸術と呼ばれるものに対しては多くの人が何らかの心理的抵抗を持つものです。これが最後にあげる心理的・文化的バリアです。イギリスには、インドやパキスタン、ジャマイカ、あるいは香港などからの移民コミュニティが数多くありますが、彼らの間では、イギリス風の博物館・美術館には大きな抵抗があります。そもそも、彼らの母国の文化には、ミュージアムを訪れるという文化がなく、イギリスのミュージアムからは、怖い感じや威圧感を受けるのです。そこで、ミュージアムが、これらの少数民族のコミュニティと共同で展示のプロジェクトを起こしていくことが、イギリスでは盛んになりました。例えばロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムでは、インド人コミュニティに学芸員が出かけ、インドの文化、イギリスにおけるインド人コミュニティの生活などについて聞き取りを行うという手法をとりました。このような手法は、他のミュージアムにも広がっていますが、英語が話せないコミュニティの人が多く、時間と費用がかかること、そしてミュージアム側とコミュニティ側の興味の一致点を見出す苦労などもあります。 以上、アートにおいてもマーケティングとその延長にある鑑賞者開発が今日必要とされていること、その意義と具体的手法について簡単に説明してきました。マーケティングによってめざすべきは、単なる事業収入の増加ではなく、顧客とのコミュニケーションに深みと厚みを増していくために、顧客のプロフィールとそのニーズを理解すること、そして顧客層を特定の人々に限らず、芸術の社会性を強化していくという意味もあるのです。具体的手法は、SWOT分析などにもふれましたが、「己と相手を知る」ことに尽きると言えましょう。 最後に、マーケティングにおいても、また鑑賞者開発においても、もっとも重要なことに一言ふれます。それは、これらの活動を「団体全体で担う」ということです。運営トップからスタッフ、アーティストにいたるまで、全員が、マーケティングは単なる技術的活動なのではなく、団体運営の核にあるべき思想だとして、信念を持って取り込まない限りは、マーケティングの本来の可能性は発揮されません。確かに、実務的には、担当者レベルでの仕事が中心にはなりますが、団体全体の態度、方向としてマーケティング=顧客との対話を大切にしなければ、その仕事も無駄になるでしょう。今後の展望
肖像(しょうぞう)とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真である。類似(肖似性)が求められる場合もあれば、理想化が求められる場合もある。芸術的な造形や精神性を示すこともある。代表的なものは、肖像画(絵画)と肖像写真(写真)である。 目次 [非表示] 1 歴史 1.1 肖像画 1.2 肖像写真 2 代表的な肖像画 3 関連項目 歴史 [編集] 肖像画 [編集] ローマ帝国治下のエジプトの少年の葬儀用の肖像画 肖像芸術は、古代ローマの彫刻において繁栄した。当時、肖像を作らせた人たちは、へつらわないようにさえするほど、写実的な肖像にするように要求した。4世紀ごろから、肖像は、描写される人物の理想的な表象とされるようになる。ヨーロッパでは、個人の外見を写実的に表す肖像がブルゴーニュとフランスで中世の終わりに復活した。 世界で最も有名な肖像はレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた絵で、誰を描いたのかが明らかでないモナ・リザという肖像画であろう。 王侯でないような一般人の肖像の最も早い例は、エジプトのアル=ファイユーム地方の葬儀の時の肖像である。これらの肖像はフレスコ画を除けば、古代ローマ時代から残っている唯一の絵画であり、エジプトの乾燥した気候がために残ったものである。 また写真がない時代は、肖像画で美化できた。有名なのは中国明の皇帝朱元璋のもので、温厚で端整な肖像画と、陰険そうで醜悪な肖像画の2種類が伝わっている。また伊達政宗の肖像画も、意図的に隻眼ではなく描かれている。 武田信玄や足利尊氏には代表的な肖像画があるが、それらが他人の肖像画であるという説がある。 自分自身を描いた人物画、肖像画(portrait)は自画像(selfportrait)である。特徴的な自画像を描いた画家に、デューラー、レンブラント、ゴッホなどがいる。 肖像写真 [編集] 肖像写真, 坂本龍馬像(上野彦馬撮影) 肖像写真は世界中で人気のある営利的な産業となっている。家の中に掲げるための家族の肖像写真などを写真館などで作って貰うひともいる。 写真術の幕開けのころから、肖像写真は作られてきた。高価でない肖像を求められたことは、19世紀中葉の銀板写真の流行の大きな原因であった。写真スタジオは世界中の都市に広がり、1日に500枚以上も現像するスタジオすらあった。これら早期の業績は30秒の露光と関連した技術的な制限や当時の画家の美意識を反映している。撮られる主体は、一般的は、無地の背景の前に座らされ、上からの窓や鏡から反射されたやわらかい光を当てられていた。 政治上、指導者の肖像が国家のシンボルとして用いられることとなる。ほとんどの国で、国家元首の肖像が政府の重要な建物に掲げられることは共通の外交儀礼となっている。指導者の肖像が過度に使われている場合は、それは個人崇拝の兆候と言えよう。 写真の場合は普通よく再現しているが、修正は可能である。修整技術は年々進歩しており、よくみても分からないレベルの物も多くなっている。
近代化産業遺産(きんだいかさんぎょういさん、Heritage of Industrial Modernization[1])は、日本の経済産業省が認定している文化遺産の分類である。2007年11月30日に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産が公表された。さらに2009年2月6日に近代化産業遺産群・続33として、新たに33件の「近代化産業遺産群」と540件の個々の認定遺産が公表された。
幕末・明治維新から戦前にかけての工場跡や炭鉱跡等の建造物、画期的製造品、製造品の製造に用いられた機器や教育マニュアル等は、日本の産業近代化に貢献した産業遺産としての価値を持っている。しかしこれらの産業遺産は、よほどのもの以外はその価値が理解されにくく、単なる一昔前の産業設備として破却されてしまうことも多かった[2]。 経済産業省は、産業遺産を地域活性化のために有効活用する観点から、2007年4月に産業遺産活用委員会(座長:西村幸夫東京大学大学院工学系研究科・工学部都市工学科教授)を設置し、日本各地に現存している産業遺産を公募した。同委員会は、公募に応じて集められた約190件400か所の物件をはじめとする各地域の産業遺産について、その実態と保全・活用の取組み状況を調査し、産業遺産の価値の理解を深めるための「近代化産業遺産ストーリー」の作成を行った。 この成果として、2007年11月30日に33件の「近代化産業遺産群」とこれに付随する「近代化産業遺産ストーリー」が公表され、近代化産業遺産群を構成する575件の個々の認定遺産に対して認定証とプレートが贈呈された。代表として同日、横浜赤レンガ倉庫において認定証とプレートの授与式が行われた。経済産業省では、近代化産業遺産認定後の施策として、広報活動、保存方法と活用方法の具体化、33件以外の新たな近代化産業遺産群の作成などを検討している。 また2009年2月23日には大阪市中央公会堂において、2008年度の認定遺産について認定証とプレートの授与式が行われた。概要 [編集]
デジタルアーカイブ (digital archive) とは博物館、美術館、公文書館や図書館の収蔵品を始め、有形・無形の文化資源等を、デジタル化して保存等を行うこと。デジタル化することによって、文化資源等の修復・公開や、ネットワーク等を通じた利用も容易となる。 資料を精緻に電子化することにより、オリジナル資料へのアクセスの必要性を減らすことが出来るため、将来的にも資料の傷みを最小限にすることが可能になる。
過去の情景、風俗を記録した映像はその国や地域にとって貴重な文化遺産であるという発想から、それら映像遺産を散逸と消滅の危機から守り保存する。 劣化や損傷が進む歴史的文化財、また伝統芸能や伝統技術などの無形文化財をデジタル映像で記録し、後世に継承する。 地域の今日の姿を体系的に映像で記録し、郷土学習への活用と次世代への継承を図るための映像ライブラリーの構築を目指す。 地域の産業活動の情報化を図るため、地域の企業が共同利用できるよう商品やデザインなどのデジタル映像データベースを作る。 デジタル化することにより、破損を恐れることなく貴重資料を提供出来る。原資料を保護するために制限がある複写についても、コンピュータを用いてのプリントアウトにより提供が可能となる。 いくつかの資料の映像を部分的に切り出し、再合成することや、様々な解説・音声などを加えることにより、元の資料をより膨らませた形での情報提供が出来るようになる。 コンピュータを用い、どこからでも貴重資料へアクセスできるようになる。また、同時に多くの利用者に資料を提供でき、各小中学校や自治体による生涯学習への活用が行える。 データベース化により、様々な角度から資料の検索が行える。それにより、資料を新たな切り口から見ることが可能となる。 デジタルアーカイブの特徴として、民主主義や情報公開のベースとなるため、国が取り組む場合が多く見られる。 欧米では自国に不利な場合でも、その事象に関連する物を保存したり、データの再検証などを行い、後世に情報を伝えるというスタンスが取られている。 1990年代中頃、東京大学名誉教授・月尾嘉男がデジタルアーカイブという言葉を国内で初めて提示した[1][2]。 2003年7月に決定された「e-Japan戦略II」では、コンテンツ産業などの国際競争力の向上や、海外における日本文化への理解の向上を図る手段の一つとして、放送・出版などのコンテンツや、美術館・博物館・図書館などの所蔵品、Web情報、特色のある文化などのデジタルアーカイブ化、および国内外への情報発信の推進を掲げている。 同年8月に決定された「e-Japan重点計画-2003」や、2004年2月に決定された「e-Japan戦略II加速化パッケージ」でも、教育用コンテンツの充実・普及や、国などの有するコンテンツの保存と利用機会の拡大を図るために、引き続き、各種コンテンツのデジタルアーカイブ化を推進していくとしている。デジタルアーカイブの意義 [編集]
映像遺産の保全 [編集]
文化遺産の記録 [編集]
地域映像ライブラリー [編集]
地域産業アーカイブ [編集]
デジタルアーカイブにより期待される効果 [編集]
資料の破損・劣化防止 [編集]
新しい表現の実現 [編集]
時間的、地理的な制約を超えた資料提供 [編集]
様々な角度からの資料検索 [編集]
その他特徴 [編集]
日本における歴史 [編集]
景観法(けいかんほう、平成16年6月18日法律第110号)は景観に関わる日本の法律。景観法と同時に公布された景観法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律、都市緑地保全法等の一部を改正する法律と合わせて景観緑三法と呼ばれる。
日本では高度成長期以降、全国どこへ行っても地域全体の調和・美観・伝統を軽視した住宅やビル、工場、護岸などの建築物・構造物が次々に建てられ、街並みや自然景観から調和や地域ごとの特色が失われていった。良好な景観や環境を求めるよりも、経済性が優先され、建築基準法や都市計画に違反しない限りどのような形態の建築物でも建てることができる「建築自由の国」と揶揄される状況になっていた。 その結果、長い年月をかけて形成された伝統と風格と調和のある街並みが都市を含む各地に残っているヨーロッパなど諸外国と比べて、無秩序でみすぼらしいといわれる今日の状況に至った。一方で、各地で高層マンションの建設などをきっかけにしたトラブルや屋外広告の氾濫などによって景観の価値に対する意識が次第に高まっていった。 一部の地方自治体では地域住民の要望に応え、景観条例を定めていた(景観法制定前に約500団体)が、法律の委任に基づかない自主条例のため強制力がなく、建築確認の際に必ずしも従う必要はなかった。 1990年代頃から、ようやく国土交通省も自らが発注する公共工事において景観に対する配慮・調和を重視するようになり、さらに「美しい国づくり政策大綱」[1]を策定し(2003年7月)、景観法が2004年6月に公布された。 2005年6月1日景観法が全面施行され、景観行政団体である地方自治体が定める景観条例(法委任条例)は、景観法を背景に、景観問題に対して大きな役割を果たすことも可能になった。景観法自体が直接に景観を規制する訳ではなく、地方自治体の景観に関する計画や条例、それに基づいて地域住民が締結する景観協定に、実効性・法的強制力をもたせようとするものである。 「この法律は、日本の都市、農山漁村等における良好な景観の形成を促進するため、景観計画の策定その他の施策を総合的に講ずることにより、美しく風格のある国土の形成、潤いのある豊かな生活環境の創造及び個性的で活力ある地域社会の実現を図り、もって国民生活の向上並びに国民経済及び地域社会の健全な発展に寄与することを目的とする」(第1条)。 景観行政団体とは、都道府県、指定都市等、又は都道府県知事と協議して景観行政を実施する市町村を指す。施行1年経った2006年5月の時点で、都道府県・政令指定都市のほかに、121市町村が景観行政団体になった(合計219団体)。 詳細は「景観行政団体」を参照背景 [編集]
目的 [編集]
景観行政団体 [編集]
イエロー・ジャーナリズム(英: Yellow Journalism)とは、新聞の発行部数等を伸ばすために、「事実報道」よりも「扇情的である事」を売り物とする形態のジャーナリズムのこと。
1890年代に、ジョーゼフ・ピューリツァー発行の『ニューヨーク・ワールド』紙とウィリアム・ランドルフ・ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙が、漫画『イエロー・キッド』を奪い合って載せた事に由来する。共に「黄色新聞(イエロー・ペーパー)」として知られた。
これは、多彩な形容詞と誇張の使用や、迅速さを優先して事実検証不足のニュース速報あるいは全出来事の慎重な偽造によって作り出された物語などのような形式をとる場合がある。
黄色新聞に扇情的に扱われた人間の興味話は、特にアメリカ合衆国で、19世紀を通じて発行部数と読者数を極度に増加させた。